第二言語習得研究において最も有名な人物の一人が、南カリフォルニア大学で名誉教授を務める言語学者のStephen Krashen(スティーブン・クラッシェン)氏です。クラッシェン氏は、1970~1980年代にかけて一般に「Monitor Model(モニターモデル)」として知られる第二言語習得に関する5つの有名な仮説を打ち出しました。ここでは、クラッシェン氏という人物について、そして同氏が唱えた5つの仮説についてご紹介していきます。
クラッシェンとは?
モニターモデルについて説明する前に、まずスティーブン・クラッシェン氏について簡単にご紹介しておきます。クラッシェン氏は1941年、アメリカのイリノイ州シカゴ生まれの言語学者で、1972年にUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で言語学の博士課程を修了、現在は南カリフォルニア大学の名誉教授を務めています。
クラッシェン氏は第二言語習得、神経言語学、バイリンガル教育といった分野で250以上の著作物を発表しており、受賞歴も数多くあります。クラッシェン氏が提唱した、「モニターモデル」として知られる第二言語習得に関する5つの仮説「The acquisition-learning distinction(習得学習仮説)」「The natural order hypothesis(自然習得順序仮説)」「The Monitor hypothesis(モニター仮説)」「The input hypothesis(インプット仮設)」「The Affective Filter hypothesis(情意フィルター仮説)」は、多くの言語学者や心理学者、教育関係者らから注目を集め、語学教育に大きな影響を与えました。クラッシェン氏の仮説については、その科学的な厳密性の欠如や「アウトプット」「文法指導」に対する軽視などから一部の言語学者らからの批判もありますが、それでもなおクラッシェン氏が第二言語習得研究の分野に残した功績は大きく、第二言語習得について学ぶ上では必ず知っておきたい人物だといえます。
また、クラッシェン氏は1993年に「The power of reading」、最近では2011年に「Free Voluntary Reading」を出版し、第一言語・第二言語、子供・大人に関わらず、言語習得におけるリーディング(特に多読)の重要性を訴えています。
クラッシェン氏の提唱した内容については、YouTubeで本人が詳しく解説している講演の動画をいくつも見ることができます。時間がある方はぜひリスニングの練習も兼ねて見てみましょう。本人の声を直接聞きながら英語「で」第二言語習得について学ぶことができる貴重な動画です。
Stephen Krashen on Language Acquisition
The Power of Reading – Stephen Krashen
クラッシェンが5つの仮説「Monitor Model(モニターモデル)」とは?
クラッシェン氏は、「モニターモデル」と呼ばれる、第二言語習得に関する有名な5つの仮説を唱えました。それが下記の5つとなります。
- 習得学習仮説(The acquisition-learning distinction)
- 自然習得順序仮説(The natural order hypothesis)
- モニター仮説(The Monitor hypothesis)
- インプット仮説(The input hypothesis)
- 情意フィルター仮説(The Affective Filter hypothesis)
ここではそれぞれについて簡単に説明します。
1. 習得学習仮説(The acquisition-learning distinction)
習得学習仮説は、言語の「習得(acquisition)」と「学習(learning)」を厳密に区別することを主張するもので、5つの仮説の中で最もファンダメンタルな理論だとしています。クラッシェン氏は、言語の「習得」は無意識のプロセスであるのに対して「学習」は意識下のプロセスであり、言語能力の改善は「習得」にのみ依存し、「学習」に依存することはないと主張しました。「習得」は子供が母語を学ぶプロセスと類似した状態を指し、一方の「学習」は一般に学校教育で行われているように文法ルールなどを意識的に学んでいくことを指します。言語学者の中には「習得」は子供だけが可能であり、大人には「学習」しかできないと主張する人もいましたが、クラッシェン氏は大人も「習得」が可能だとしました。
2. 自然習得順序仮説(The natural order hypothesis)
自然習得順序仮説とは、言語の習得には普遍的な順序があり、ほぼすべての学習者がその順序に沿って言語を習得するという仮説です。クラッシェン氏は論文の中で学習者は「進行形(ing)・複数形(s)・be 動詞」→「助動詞としてのbe 動詞・冠詞」→「不規則動詞の過去形」→「規則動詞の過去形・三単現の”s”・所有格の”s”」の順序で言語を習得すると主張しました。これは、複数形の”s”のほうが所有格の”s”よりも早く習得されるということです。しかし、この自然習得順序仮説についてはその後の研究で普遍性を疑問視する研究結果も出てきました。例えば日本人の場合は複数形の”s”よりも所有格の”s”のほうが早く習得されるなど、その習得順序は決して普遍的なものではないことが分かっています。これは、日本語には所有格の”s”に対応する「の」という助詞がある一方で、複数形の”s”に対応する日本語はないためだと考えられます。つまり、第二言語の習得順序については母国語の影響を受けるということです。
3. モニター仮説(The Monitor hypothesis)
モニター仮説とは、意識的に「学習」した言語は発語を「モニター」することにしか有効ではなく、「習得」された言語しか発語の能力は持たないとする仮説です。「モニター」というと少し分かりづらいですが、「チェックする」といったイメージで捉えておきましょう。クラッシェン氏は習得学習仮説において言語の「習得」と「学習」を明確に区別したうえで、それら2つの異なるプロセスは大人において共存しうることを主張しましたが、それらが第二言語の発話においてどのように機能するのかを説明したのがこのモニター仮説です。クラッシェン氏は、「学習」によって身につけた言語の知識はあくまで “Monitor or Editor” という特定の機能しか持たないと主張しました。これは、つまり発話の前や最中に自分が発する言葉が文法や規則上正しいかどうかをチェックし、間違っていれば正しく訂正するという機能しか持たず、発話自体の能力向上にはつながらないというものです。また、このモニターが過剰に働くと、正しい文法やルールに基づいて発話をしようと考えるあまりに流暢な発話が妨げられてしまうというマイナス効果も指摘されています。このモニター仮説については、学習により得られた知識であってもモニタリングを何度も繰り返すことで無意識的に使いこなせるようになる「自動化」が起こり、言語能力の向上に貢献できるという反論があります。
4. インプット仮説(The input hypothesis)
インプット仮説は、クラッシェン氏が第二言語取得において最も重要だと主張した仮説で、学習者の言語能力は現在のレベルよりも僅かに高いレベルのインプットを理解したときに進歩するものであり、この理解可能なインプット(Comprehensible Input)こそが最も大事だというものです。クラッシェン氏は現在の言語習得レベルを「i」、僅かに高いレベルを「i+1」とし、この「i+1」を含む新しい理解可能なインプットを理解することによって言語習得が進んでいくと説明しました。インプット仮説においては、インプットであれば何でもよいわけではなくあくまで「理解可能なインプット」が重要である点、またアウトプットはあくまで言語習得の結果であり、アウトプット自体は学習者の言語能力向上には全く影響しないという点が強調されています。しかし、第二言語習得研究の世界ではこのインプット仮説が主張する「インプットの重要性」については大方合意が得られているものの、インプットだけで十分なのかどうかについては反論があります。具体的にはインプットは必要だが十分ではないとし、アウトプットの重要性を唱えたMerrill Swain氏の「アウトプット仮説」、言語習得には言葉のやりとり(インタラクション)が重要だと唱えたMichael Long氏の「インタラクション仮説」などがあります。
5. 情意フィルター仮説(The Affective Filter hypothesis)
情意フィルター仮説とは、感情的な要因がいかに第二言語習得に影響を及ぼすかを説明した仮説で、具体的には「不安」や「自信のなさ」といったネガティブな感情が、言語の習得能力を低下させてしまうというものです。クラッシェン氏は情意フィルター仮説において、第二言語習得の成功に関わる感情として「Motivation(動機付け)」「Self-confidence(自信)」「Anxiety(不安)」の3つを挙げており、動機が強ければ強いほど、そして自信があればあるほど情意フィルターは低くなり、言語習得に成功しやすくなる一方で、不安な気持ちが強いと情意フィルターは高くなり、スムーズな言語習得の妨げとなるとしています。言語を話す「自信のなさ」や、間違えたら馬鹿にされるのではないかといった「不安」が言語習得に悪影響を与えてしまうということです。
モニターモデルに対する批判
上記でご紹介したクラッシェン氏の5つの仮説に対しては他の言語学者からの批判もあります。代表的な批判のポイントとしては、クラッシェン氏は「習得」と「学習」を明確に区別する「習得学習仮説」を前提に他の仮説を展開していますが、そもそも「習得」と「学習」が明確に分けられるものであるという論理的な根拠がない点、クラッシェン氏の仮説の中でも最も重要な「インプット仮説」においても、「i+1」の「+1」が具体的にどのレベルまでを指すのかが曖昧で具体性に欠ける点、第二言語習得におけるアウトプットや文法教育の有用性を否定している点などが挙げられます。これらの批判には妥当なものも多く、現在の第二言語習得研究においてはクラッシェン氏の仮説を全て正しいと考えるのは現実的ではありません。
まとめ
いかがでしょうか?クラッシェン氏が70年~80年代にかけて提唱した5つの仮説を一つ一つ見てみると、仮説に対する批判もある一方で、英語学習者の実感としては納得できる部分も数多くあることが分かります。「インプット仮説」が提唱するように、全く基礎的なインプットがないままオンライン英会話などでアウトプットを続けていても効率が悪いという実感を持っている方は多くいますし、「モニター仮説」が提唱するように、「学習」によって学んだ正確な英文法や規則などは頭では理解できていてもそれで「習得」しているわけではないので、例えばスピーキング時に三単現の”s”を完全に無意識で正確に使いこなすのはとても難しいということは誰もが共感できるはずです。
このように、第二言語習得に関する理論には実際の英語学習者の視点から見たときに腹落ちするものが数多くあります。特にクラッシェンの「モニターモデル」はその後の第二言語習得研の世界に大きな影響を与えており、英語を学んでいる方であれば一通り学習しておいて損はありません。これらの仮説を一つ一つ理解していくことで、効率的に英語を学ぶための方法や道筋は自然と見えてきます。ぜひ上記で紹介した動画も参考にしながら、第二言語習得研究に基づく効率的な英語学習をできるようになりましょう。
【参照サイト】University of Southern California “Stephen Krashen”
【参照サイト】“Principles and Practice in Second Language Acquisition” Stephen D Krashen
English Hub 編集部
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